Jimi Hendrix(ジミ・ヘンドリックス)

アメリカの黒人ロックギタリスト、シンガー、ソングライター。
(1942年11月27日 - 1970年9月18日)

アー・ユー・エクスペリエンスト? - Are You Experienced


1967年に発表したデビュー・アルバム。

2003年、ローリングストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500で15位(アフリカ系アメリカ人ミュージシャンのアルバムとしては、マーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイン・オン』の6位、マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』の12位に次ぐ)。


<解説>
イギリスで発売されたオリジナル盤は、既発のシングル3曲(「ヘイ・ジョー」「パープル・ヘイズ(紫のけむり)」「ザ・ウィンド・クライズ・メアリー(風の中のマリー)」は含まず、全て新曲で構成された。ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはデビューシングル「ヘイ・ジョー」が全英4位のヒットとなり、本作発売日の5日前にロンドンでヘッドライナーとしての初公演を行うなど[2]、イギリス(およびヨーロッパ圏)での人気を確立しつつあった。

本作は、全英2位の大ヒットとなるが、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に阻まれ、1位獲得はならなかった。

ギターのフィードバック奏法で始まる「フォクシー・レディ」、テープの逆回転を取り入れた「アー・ユー・エクスペリエンスト?」等、当時としては最先端の音作りを駆使しているが、その一方で、伝統的な12小節形式のブルース・ソング「レッド・ハウス」もある。

オリジナル盤(アナログLP)はモノラル録音だったが、リマスターを経たCDなどではステレオ化されている例もある。


<収録曲の変遷>
1967年6月18日、モンタレー・ポップ・フェスティバルでの伝説的なパフォーマンスにより、ヘンドリックスは母国アメリカでも名声を高める。それを受けて、8月には本作がアメリカでも発売されるが、ジャケットや収録曲はオリジナル盤と異なっていた(オリジナル盤から3曲を外し、シングルA面の3曲を追加した内容)。カナダ盤もアメリカ盤と同様の仕様だった。

1993年に本作がCD用としてリマスターされた際、シングルA面・B面の6曲(後述)が、オリジナル盤11曲の前に位置する曲順で追加された。 1997年にエクスペリエンス・ヘンドリックス(ヘンドリックスの遺族や関係者による財団)が監修したリマスターCD以降は、オリジナル盤11曲の後にシングル曲6曲を収録する形に統一されている。


<収録曲>
1. フォクシー・レディ - Foxy Lady
2. マニック・デプレッション - Manic Depression
3. レッド・ハウス - Red House
4. キャン・ユー・シー・ミー? - Can You See Me
5. ラヴ・オア・コンフュージョン - Love Or Confusion
6. アイ・ドント・リヴ・トゥデイ - I Don't Live Today
7. メイ・ディス・ビー・ラヴ - May This Be Love
8. ファイア - Fire
9. サード・ストーン・フロム・ザ・サン - Third Stone From the Sun
10. リメンバー - Remember
11. アー・ユー・エクスペリエンスト? - Are You Experienced?
(オリジナル盤)


左利きの奏法



ヘンドリックスは右利き用のストラトキャスターを左右逆さまにして、右手で押弦し、左手で弦を弾いた。つまり左利きの奏法であり、一般的には左利きの人物と認識されている。弦は下に細い1弦、上に太い6 弦と、左利き用の順番に張り替えてあった。左利きでありながら右利き用のギターを逆さまに使用することで、3つのコントロールノブが上側にくるため、演奏中に左手で自在にノブを操作し音質を変化させるという独特の奏法を生み出すことができたという説もある。ヘンドリックスは晩年に左利き用のギブソン・フライングVを所有していたが、上手く使えないからとローディーだったエリック・バレットにそのギターをプレゼントしている。右利き用ギターをひっくり返して使用しているうちに、コントロール部が上に位置していないと上手く弾けなくなっていたらしい(バレットの談話)。バレットはそのギターを後に売却。現在はハードロックカフェに展示されている。

もっとも「ヘンドリックスは本来は右利きだったのではないか」という説も根強く囁かれている。その証拠として、食事や書字の際には右手を使っていたことが挙げられる。『エレクトリック・ジプシー』(ハリー・シャピロ&シーザー・グレビーク)や『ジミヘンドリックスの創作ノート』『天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実』[1](ジョン・マクダーモット、エディ・クレイマー)など複数の伝記にその様子を写した写真が掲載され、「ジミは字を書く時は右利きだった」と記載されている。さらに父アルも伝記映画や雑誌「エクスワイア」1993年4月号など複数の媒体において、一貫して「ジミは左利きにあこがれがあった」「ボールを投げる時は右手だった」などと証言している(同時に息子ジミがギターを始めた時に、右利きなのに左利きの弾き方をするので直そうとしたという逸話も紹介している)。あえて左手で弾くことで、普通とは違った音を出したかったのではないか、という説もある。以上の点から、少なくともギターは左利き、書字は右利きと、変則的な利き手だったのではないかという意見がある。

ただしヘンドリックス本人は1967年の『Beat Instrumental magazine』掲載の取材で「最初に(右利き用の)ギターを弾いた時、自分は左利きだから違和感を覚えた」と語っている。また『天才ジミ・ヘンドリックスギター革命児の真実』には、ヘンドリックスは右手でも左手でも書字が可能だったという記述もある。逆に『エレクトリック・ジプシー』では右手でもギターを弾けたと記述されている。


ストラトの魔術師



現在ではロックギターの代名詞的なモデルとなっているフェンダー・ストラトキャスターだが、ヘンドリックスが登場した頃には使用するミュージシャンもほとんどおらず、生産中止の噂もあった。しかしヘンドリックスが使用することによってストラトキャスターの人気が一気に上昇。特にストラトキャスターのシンクロナイズド・トレモロ・ユニットによる驚異的なサウンドマジック(アーミング)は、世界中のギタリストの度肝を抜いた。ストラトキャスターの設計者であるフレディ・タバレスは「ベンチャーズやザ・ビーチ・ボーイズのようなサウンドは予想していたが、ヘンドリックスのトレモロマジックは全くの想定外」と発言している。また、レオ・フェンダーが「あれ(トレモロ)はあんな風に使うものではない」と激怒したという逸話も残っている。

ヘンドリックスのギターサウンドというと歪みきった大音響がイメージされる場合が多いが、名曲「Little Wing」などで知られるように、実際にはボリュームを絞ったクリーンなサウンドも多用している。ストラトの3つのピックアップを使い分け、ボリュームやトーンを頻繁に調整し、演奏中に音色を大きく変化させることも多かった。エリック・クラプトンが使って有名になったハーフトーン(ストラトのピックアップ切り替えスイッチを中間位置にすることで生じるフェイズサウンド)も、実際はヘンドリックスのほうがずっと早くから使用している(ヘンドリックスが考案したのではなく昔からある裏技だったらしい)。ボディやネックを叩いて弦を共鳴させフィードバックを起こしたり、トレモロユニットのスプリングを弾いて不思議な音を出したりと、ギターから発生するあらゆる音を演奏に利用していたのも有名。

ヘンドリックスの存命中にストラトキャスターを使用するフォロワーはほとんどいなかったが、死後にはエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、リッチー・ブラックモアなどがストラトキャスターをトレードマークにし始めた。ヘンドリックス以降数多くのロックやブルースなどのギタリストがストラトを使用したことで、ストラトはギブソン・レスポールと並び、ソリッドボディのエレクトリックギターの代名詞的存在になった。

ストラトキャスター以外にも、ギブソンのフライングVやSG、レスポールを始め、様々なメーカーのギターを使用していた。ローディーだったエリック・バレットは「ジミがブルースを弾くときはいつもフライングアロー(フライングV)だった」と証言している。12弦アコースティックギター(トニー・ゼマイティスが、楽器製作を初めて間もない頃に製作したもの)で「Hear My Train A Comin'」を弾き語りする映像も残っているが、このギターはヘンドリックスの所有物ではなく撮影に当たって用意されたものと言われている。

ヘンドリックスはギターの各弦を通常の音程から半音下げるチューニングを多用していた。これはギターの音程をヘンドリックスの声域(音域)に合わせる目的と、チョーキングなどの奏法をしやすくする目的と、両方の意味があるという意見がある。スタジオレコーディングの曲の中にはレギュラーチューニングも多い。ライブ音源の中には全音(1音)下げチューニングで演奏されている曲も確認できる(レコードやCDにする際、レコーディングエンジニアが音程を電気的に変化させている例もあるので注意)。


ミュージシャンとしての特徴



ヘンドリックスは、エレクトリックギターの演奏家として非常に高い技術と表現力を備えていただけではなく、画期的な技法の考案によってエレクトリックギターという楽器の可能性をそれ以前とは比較にならないほど拡大したと評する意見がある。またメジャーシーンでの活動期間がわずか4年ほどだったにも関わらず、後世のギタリストに与えた影響が比類のないほど絶大であるという評価も存在しており、史上最高のロックギタリストと呼ばれることが多い。

一般的にヘンドリックスはギタリストとして語られるが、演奏者として優れているだけではなく作曲家・編曲家・レコーディングエンジニアとしても独特な才能を備えており、歌手としても味わい深く表現力に富んでいるという評価もある。また、常に新しいサウンドを模索しており、ギターだけに執着しているわけではなかったという意見もある。

奇抜なファッションや派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは「一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」、あるいは「僕とジェフ・ベックが二人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している。

ヘンドリックスのプレイスタイルについては、破天荒なアクションが取り上げられることが多いが、基本はあくまでブルースやR&Bに根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものだという意見がある。ただし音の選び方やフレーズの展開は強烈に非凡なもので、従来からのブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的な内容だったという評価もある。

ヘンドリックスは非凡なインプロヴィゼーション能力によって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブが曲の大部分を占める曲で、ライブごとに全く違った展開のアドリブを行った。これは、「指癖的な小さなフレーズ(リック)を沢山覚えておき、それらを組み合わせてアドリブを構築する」のではなく、「その瞬間に頭の中で鳴った(聞こえた)フレーズをギターで弾く」というアドリブのとり方を行っていたから、という説がある。

ヘンドリックスのソロプレイは、例えば後に登場してくるハードロック/ヘヴィメタル系ギタリスト等と比べると特に速弾きとは言えず、運指もやや正確さに欠けるところがある。しかしギターという楽器が本来備えている音に加え、大音量に付随する電気的なノイズまでも駆使し、音色を刻々と変えながら、即興で感情の高まりを表現していく能力により、現在もヘンドリックスに並ぶロックギタリストは出現していないと評価する声もある。ハードロック/ヘヴィメタル系ギタリスト等と比べると音の数こそ少ないが、緩急自在のフレージングと、タイム感のコントロールにより、聴き手に与えるスピード感は非常に高い。ライブ演奏が素晴らしかっただけではなく、スタジオ録音でも革命的と言えるような多彩なサウンドを生み出した。

作曲面においても後にロックのスタンダードとなる数多くの名曲を残した(特に「Purple Haze」、「Little Wing」、「Voodoo Chile(Slight Return)」、「Red House」、「Fire」、「Foxy Lady」などの曲は多数のミュージシャンによってカバーされている)。

ヘンドリックスはギターの音質を電気的に変化させる機材(いわゆるエフェクター)を多用することで知られた。スタジオ録音はもちろんステージでもエフェクターを使用し、従来のギタリストでは考えられなかったほど音質に豊富なバリエーションをもたせている。これもヘンドリックスの大きな功績のひとつと言える。主に使用していたのは音を歪ませるファズ、踏み加減で音質が連続的に変化するワウペダル、音を波立たせるユニヴァイブといったものだった。ヘンドリックスが存命の頃には「機械に頼っていて邪道」という評価もあったが、現在の多くのエレクトリックギター演奏者に比べると、むしろヘンドリックスの使用機材はシンプルだという意見もある。ヘンドリックスは手に入れたエフェクターの可能性を探ろうと何時間も演奏を続け、そのエフェクターの設計者ですら想定していなかった斬新な音を引き出していたとされる。その結果ヘンドリックスの演奏の中には、どういう方法で出したのか今もって不明な、謎のサウンドが非常に多い。これはスタジオ録音だけではなく、ライブでも同様である。エフェクターなどの電子機器設計の達人だったロジャー・メイヤーが、ヘンドリックスのアドバイザーだったのも大きな意味を持っていると言われる。

ギタリストであると同時に歌手でもあるヘンドリックスだが、ずっと「自分は歌が下手だ」と卑下し続けていた。そんなヘンドリックスにとってのヒーローは、独特の歌唱法でフォーク/ロック界を席巻したボブ・ディラン。ディランの歌を聴いたヘンドリックスは「これなら俺も歌えるかも知れない」と勇気づけられたという。ヘンドリックスはディランに大きな影響を受けており、ディランの曲「Like a rolling stone」や「All along the Watchtower」などをカバーしている。ヘンドリックスが「All along the Watchtower」をシングルヒットさせたことを受け、ディランは「あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」と発言している(ディランの伝記より)。またディランは、ヘンドリックスのアレンジに近い形で同曲を演奏したこともある。エリック・クラプトンも「ジミはギターだけではなく歌もとてもうまいよ」と述べている。

ヘンドリックスは音楽の理論などに疎く楽譜もほとんど読めなかったと言われるが、ジャズ系ミュージシャンとのセッションでも引けを取ることはなかったと評されている。帝王マイルス・デイビスやジョン・マクラフリン(ギタリスト)に才能を絶賛されていたほか、マイルス作品の編曲などで知られる巨匠ギル・エヴァンスもヘンドリックスとの競演を熱望していた。ギル・エヴァンスはヘンドリックスの死後、ヘンドリックスの曲をアレンジして演奏したレコード「THE GIL EVANS ORCHESTRA PLAYS THE MUSIC OF JIMI HENDRIX」を発表。1988年に亡くなるまでステージでヘンドリックスの曲を演奏し続けた。エヴァンスいわく「ジミのアルバムを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」。


謎の死



ヘンドリックスの死は、睡眠薬と酒を併用したことによる事故と言われている。しかし、死亡する際に一緒にいたダンネマンの行動などに不審な点があり、死の真相は謎のままであると指摘する声もある(ヘンドリックスの様子がおかしいのにダンネマンはすぐ救急車を呼ばなかった、ヘンドリックスの肺や胃やベッド上の吐瀉物から異常に多量のワインが検出された、など)。

ヘンドリックスの死の直前、ヘンドリックスと同室にいたダンネマンからエリック・バードン(アニマルズ)に、「ジミの様子がおかしい」との電話がかかってきたという。バードンが「すぐ医者(救急車)を呼べ」と促したのに対し、ダンネマンは「部屋にドラッグがあるから呼べない」という旨の返事をしたという(バードンの談話)。

ダンネマンは「救急車で病院に運ぶ際、ジミが窒息しないよう寝かせておくべきなのに、救急隊員がジミをイスに座らせる体勢で移送したため窒息してしまった」などと述べている。しかしホテルの部屋を訪れた救急隊員は「ホテルに到着した際、ヘンドリックスは既に呼吸停止の状態で、蘇生の可能性は低かった。病院へ移送する際、イスに座らせるような体勢を取らせた事実はない」と述べている。また運び込まれた病院の医師は「ヘンドリックスは病院に到着した時点で既に死亡していた」と述べている。ダンネマンの証言は二転三転し信憑性が乏しいという意見もある(ヘレン・シャビロ著『エレクトリック・ジプシー』、トニー・ブラウン著『実録ジミヘン最後の日』などに記述がある)。

生前のヘンドリックスはマフィアの金づるになっていたという説があり、マフィアに誘拐されたこともあると言われる(ノエル・レディングやジョン・マクダーモットなどの著書に記述がある)。ヘンドリックスはマフィアの手で睡眠中に大量のワインを飲まされ、溺死のような形で窒息死させられたのではないかという説も存在する。元ローディーのジェームズ・タッピー・ライトは、自著「Rock Roadie」の中で「マネージャーのマイケル・ジェフリーが『自分がヘンドリックスを殺した』と言った」と証言している。


生涯



○生い立ち

ジミ・ヘンドリックスは1942年、ワシントン州シアトルに生まれる(デビューアルバムの裏には1945年生まれと記されている)。父アルことジェイムズ・アレン・ヘンドリックスは、黒人の父親とインディアンの母親との間に生まれた「ブラック・インディアン」である。純血のチェロキー族だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたという。その影響はヘンドリックスの作る曲のそこかしこに見いだされる。母ルシールは10代の若さでヘンドリックスを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったといわれ、幼いヘンドリックスを置いて出奔し、数年後に亡くなっている。ヘンドリックスの名曲「Angel」は、亡き母ルシールが夢に現れたことから生まれたという説もある。ルシールは黒人だが、白人の血も引いていたと言われる。つまりヘンドリックスは黒人、インディアン、白人と、多くの人種(民族)の血を引いていたことになる。

ヘンドリックスの誕生当時、父親のアルは第二次世界大戦に招集され太平洋戦線へ出征中だった。母ルシールが出奔してしまったため、ヘンドリックスはルシールの姉夫婦の元で育てられていたという。戦争終結後、帰国したアルが息子ジミを引き取り、父一人、息子一人の生活が始まった。なおヘンドリックスは生まれた当初、母ルシールによってジョニー・アレン・ヘンドリックスと名付けられていたが、父アルが引き取った際にジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスと改名している(父アルの談話)。父アルと母ルシールの折り合いが悪かった影響もあり、ヘンドリックスはたびたび祖母ノラ・ヘンドリックスの元に預けられていたという。ノラはインディアン居留地(Reservation)に住んでおり、ヘンドリックスはノラからインディアンの昔話を聞かされるのと同時に、居留地で希望のない生活を送るインディアンたちの姿を目の当たりにしていたという(ヘンドリックスの談話)。名曲「I Don't Live Today」(今日を生きられない)はその体験から生まれたと言われている。


○音楽への傾倒

多くのブルースやロックのミュージシャンと同様、ヘンドリックスもレコードなどを聴いて、独学でギター演奏を学んだ(父アルの談話)。父アルは庭師の仕事をしていたが、生活は貧しかったと言われている。ヘンドリックスが15歳のころギターに興味を示したため、アルは当時の住まい(アパート)の家主の息子から古いアコースティックギターを5ドルで買い取り、ヘンドリックスに与えた。これがヘンドリックスとギターとの最初の出会いだった。その後、シアトルの楽器店から初めてのエレクトリックギターを購入している(父アルの談話)。ヘンドリックスはブルースやR&Bやロックンロールのレコードを聴いて練習する一方、テレビのアニメなどのBGMや効果音も熱心にコピーしていたという(ヘンドリックスの幼なじみの談話)。

少年期のヘンドリックスはアマチュア・バンドで経験を積み、全米ナンバーワンバンドの座を得たこともあったという(父アルの談話)。しかし自動車窃盗の罪で1961年5月2日逮捕された。その際、投獄されるのを回避するために陸軍に志願して入隊、精鋭部隊・第101空挺師団へと配属された。一緒に軍役についていた仲間の中に、後にバンド・オブ・ジプシーズを組む黒人ベーシストのビリー・コックスがおり、軍隊内のクラブハウスで一緒に演奏することもあったという。

やがてヘンドリックスは空軍を除隊する。イギリス人の音楽記者クリス・ウェルチが'70年代初頭に著した伝記などでは、パラシュートの降下訓練で負傷したため軍隊を除隊になった、という説明がなされている。2005年にアメリカ国内で公表された軍内部の記録によると、自慰行為と薬物、ギターにしか興味を示さない隊内部の劣等兵で、常に隊の規律を乱して問題視されていたが、ある日トイレの個室で自慰行為をしていた所を上官に目撃され、それが最後の一押しとなって除隊させられたという。伝記作家によると、ヘンドリックスは早期に軍役を終えて音楽活動に移りたかったらしく、軍隊では忌み嫌われる同性愛者を装って、わざと問題を起こしていたとの説もある。最終階級は三等軍曹。

除隊後に本格的に音楽活動を始めるが、当時は無名のバックミュージシャンだった。アイク&ティナ・ターナーやアイズレー・ブラザーズなど、数々の有名ミュージシャンのバックでプレイし、全米各地へのツアーにも同行していた。一時期は、リトル・リチャードのツアーに参加しており、音が大きく衣装やアクションが派手だったことから、リチャードに「俺より目立つな!」と怒られるほどだった(リチャードの談話)。


○エクスペリエンス結成

1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ、9月に渡英する。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キースだと言われる。当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ブルーフレームズ」を率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス一人だけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたという。チャンドラーに渡英を勧められた際、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけた。その際、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えている(チャンドラーの談話)。

ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)と共にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成。1966年10月から活動を始める。その際、名前を「James(Jimmy)」から「Jimi」に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル「Hey Joe/Stone Free」をリリース。全英4位のヒットを記録しスターの座に上る。アメリカの伝統的なブルースをベースにしながら、それまで誰も聞いたことのなかった斬新なギターサウンドや卓越した演奏技術、そして圧倒的なインプロヴィゼーション能力を披露することにより、ヘンドリックスは一般の音楽ファンはもちろんプロのミュージシャン達にも大きな衝撃を与えた。渡英したばかりのヘンドリックスの演奏を初めて目の当たりにしたエリック・クラプトンは「誰もジミー(Jimmy)のようにギターを弾くことはできない」という言葉を残している。後年、ジェフ・ベックやクラプトンは、「(メジャーデビューしたばかりのヘンドリックスの演奏を聴いて)廃業を考えた」と語っている(英国BBCの音楽番組のインタビュー)。ヘンドリックスのステージには連日ビートルズやストーンズなどのメンバーが顔を見せ、出演するクラブには長蛇の列ができたという。

1967年の夏、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは米カリフォルニア州モンタレー(モントレーなどと表記される場合もある。スイスのモントルーと混同している例もあるので注意)で開催された世界初の本格的野外ロックフェスティバル、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。これは同フェスティバルのイギリスでの世話役だったポール・マッカートニー(ビートルズ)が、「ジミを出さないフェスティバルなどありえない」と熱心に推挙したためと言われる。ヘンドリックスはモンタレーで、聴衆を圧倒する演奏とギター燃やしのパフォーマンスを炸裂させ、母国アメリカでも一気にスターダムにのし上がった。

イギリスでデビューしたヘンドリックスだが、モンタレー出演などで母国アメリカで成功を収めた後は、アメリカを本拠として活動するようになった。全米をくまなくツアーする過密スケジュールの合間にスタジオでのレコーディングも続け、1968年にアルバム『エレクトリック・レディランド』をリリースした。

ヘンドリックスは演奏技術が高かっただけではなく、ギターを歯で弾いたり、あたかも男性器のように扱ったりした末、床に叩き付けて火を放つなど、激しくセクシーなステージアクションも人気の要因だった。また古い軍服を身につけ(ミリタリー・ファッション)、強くパーマをかけた独特のヘアスタイル(エレクトリック・ヘア)をトレードマークにするなど、ファッション面でも注目を集めた。そのため「ブラック・エルヴィス」(黒人のエルヴィス・プレスリー)、「ワイルドマン」といった異名も生まれ、センセーショナルな扱いを受けることが多かった。しかし生身のヘンドリックスはシャイで礼儀正しい人物だったという証言も多い。

黒人でありながら白人向けのロックスターとして売り出されたのも異例なことだったと評されている。白人の若者達にとって神のごときアイドルとなった一方、黒人の公民権運動が隆盛を見せていたアメリカでは、同じ黒人達から「裏切り者」と見なされる面もあった。そのため黒人向けの音楽を主体としていたラジオ局などでは、ヘンドリックスの曲は徹底的に無視された。さらには黒人運動家とそれをなだめたい白人政治家の両方が、黒人なのに白人に支持されているヘンドリックスの立場を利用したがっていたと言われる。ヘンドリックス自身はあまり政治的な人間ではなかったという論評が多いものの、暗殺された黒人指導者キング牧師のために寄付を行ったこともある。ヘンドリックスは同胞である黒人層に今ひとつ受け入れられないことに悩んでいたと言われるが、マネージメント側はヘンドリックスをあくまでも白人向けロックスターとして売っていく方針だったとされる。ヘンドリックスと親交のあったギタリストのジョニー・ウィンターは、ヘンドリックスが敬愛する先輩ブルースギタリストのハウリン・ウルフ(黒人)と共演した際、ウルフから「白人と組んで金儲けをしている奴」と罵られたエピソードを明かしている。ヘンドリックスはウルフの言葉に黙って耐えていたという。


○エクスペリエンス解散とバンド・オブ・ジプシーズ結成

多くのロックバンドの例に漏れず、過密なスケジュールや精神的なプレッシャーにより、バンドや周辺の人間関係は悪化していったと言われる。まず、ヘンドリックスの音楽面でのプロデューサーだったチャス・チャンドラーが、混乱した状況に嫌気が差して『エレクトリック・レディランド』のレコーディングが行われている時期にヘンドリックスの元を去った。マネージャーのマイケル・ジェフリー(アニマルズのマネージャーでもあった)が完全に実権を握ることになったが、ヘンドリックスとジェフリーの関係は微妙で、ヘンドリックスはジェフリーと直接話をするのを避けていたという証言がある(ジェフリーの秘書の談話)。

その後ノエル・レディングが音楽上の意見の相違により脱退。そのためデビュー当初のジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしての活動は1969年6月までである。レディング本人は「ギャランティ支払いの内容を明確にするよう求めたため解雇された」と主張している場合もあれば、「自分の知らない間にジミが次のベーシストを選考していると記者から言われ嫌気が差し脱退した」などと述べている場合もある。1999年BBC制作のドキュメンタリー番組「ジミ・ヘンドリックス―神になったギタリスト―」(原題: The Man They Made God)では「ギャラに関し疑問を呈したのが問題視された」といった説明を述べている。ヘンドリックスが多重録音に凝りだしたこと、ヘンドリックスが気まぐれで時間にルーズであること(約束の時間にレコーディングスタジオに現れず、遊び歩いている)などに対し、レディングは常に批判的な意見を表明していたと言われる。

ノエル・レディング脱退後、ヘンドリックスはミッチ・ミッチェルと、軍隊時代からの友人ビリー・コックス(ベース)と共にジプシー・サンズ&レインボウズとして活動を開始。エクスペリエンスがトリオ編成だったのに対し、コンガなどのパーカションやサイドギターも加え、ビッグバンド結成を狙っていたと言われる。

1969年8月、ミッチェルやコックスを含む6人編成のバンド(ジプシー・サンズ&レインボウズ)でウッドストック・フェスティバルに出演しトリを務め、「The Star-Spangled Banner」(星条旗、アメリカ合衆国の国歌)の演奏を披露。フィードバックやアーミングといったエレクトリックギターの特殊奏法の限りを尽くして、聴衆に爆音を投げかけた。これは爆撃機が空爆を行い、民衆が泣き叫び逃げまどう様子を音で表現したものと言われ、ベトナム戦争を批判した演奏だという解釈が一般的である。後年、ミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)は、ヘンドリックスのアメリカ国歌演奏を「1960年代最大のロック・パフォーマンス」と賛美している。

ヘンドリックスが目指したビッグバンド形態は、マネージメント側がそれを望まなかったことや、ヘンドリックスが多人数をまとめあげるには経験不足だったと見られることもあって長続きせず、1969年10月にはビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス(ドラムス)と、3人編成の「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成する(全員が黒人)。1969年12月31日01970年1月1日にニューヨークのフィルモア・イーストで行われたデビューコンサートの模様はアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』等で聞くことができる。同コンサートにおける「Machine Gun」の演奏を聞いたマイルス・デイビスは「俺はこういう音楽がやりたかったんだ」と語ったと言われる(ヘンドリックスの友人でバックコーラスなどを務めたゲットーファイターズの証言)。

イギリス人の白人(ミッチェルとレディング)に代わり、ヘンドリックスがアメリカの黒人2人と組んだ画期的なロック・ファンク・バンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ヘンドリックスのマネージメント側は黒人だけのグループに難色を示したと言われる。マディソン・スクエア・ガーデンでの大規模な公演が失敗に終わり(ヘンドリックスが出番の前に知人から強いドラッグを渡されて服用し、まともに演奏が出来なかったためと言われる)、ヘンドリックスとバディ・マイルスの音楽面での確執もあったと言われ、バンド・オブ・ジプシーズは1970年初頭に解散と短命に終わった。バディ・マイルスは「バンド・オブ・ジプシーズのリーダーは自分であり、名称などは自分が発案した」とたびたび発言しており、ヘンドリックスとの主導権争いも存在していたと言われる。またバディ・マイルスは自発的に脱退したのではなく、ヘンドリックスがマイケル・ジェフリーに命じて解雇させたという証言もある(ジェフリーの秘書の談話)。

当時の多くのロックミュージシャンと同様、ヘンドリックスも薬物(ドラッグ)依存の傾向があったとされる(ヘロインやLSDなどを常用していたという証言がある)。1969年にはカナダのトロント空港で麻薬不法所持の疑いで逮捕されたものの、裁判の後に嫌疑不十分で無罪となっている。代表曲「Purple Haze」はドラッグソングとされる場合もあるが、ヘンドリックスは「あれは海底を歩いている夢を見たことから生まれた曲」などと反論している。


○バンド・オブ・ジプシーズ解散後

その後は、ミッチ・ミッチェルとビリー・コックスをバックに活動を再開。アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催している。また米ニューヨークに自身のスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオを建設。1970年8月末にはイギリスのワイト島で開かれたフェスティバルに出演したが、その後のヨーロッパツアーではドラッグによる体調不良や、コックスが精神不安でアメリカに帰国してしまうなどのトラブルが続いた。

この間、元エクスペリエンスのノエル・レディングや、元マネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズのベーシスト)が、コックスの代わりにベーシストを務めるのでは…といった憶測も飛んでいた(レディングには実際にヘンドリックスからオファーが届いていたという説もある)。

そういった騒動でツアーが中断した時期、ヘンドリックスはチャス・チャンドラーの家を訪ね、「再び僕のマネージメントとプロデュースをしてほしい」と伝えようとしていたらしい(チャンドラーの談話)。

同年9月18日未明(深夜から早朝)、モニカ・ダンネマンという女性と二人でロンドンのホテルに滞在中に急逝。死亡時は27歳。デビューからわずか4年ほどでの死だった。

死亡原因は、睡眠前に飲酒しながらバルビツール酸系睡眠薬を服用した後、睡眠中に嘔吐したことによる窒息死とされる(クリス・ウェルチ著の伝記などに診断書が掲載されている)。「自殺したのでは」などの憶測も飛んだが、現在では否定されている。

故郷である米ワシントン州シアトルでの葬儀には、ミッチ・ミッチェル、ビリー・コックス、ノエル・レディングといったバンドメンバーに加え、マイルス・デイビスなどのミュージシャンが数多く参列し、はなむけのセッションが行われた。